日経新聞に抗議の電話を入れたのが7月29日の朝だった。 板東女史の文章はなんの注目もあびずにそのまま終息すると思っていたのに・・・ 今度はいっそう過激なタイトルで 挑戦的に登場した(8月18日付) 数日遅れで読んだが、その時にはすでにネット上でも物議を呼んでいた。 誰がどんな猫の飼い方をするか、何が正しいのか、一言で片付かないこともある。 ただ感情的な加熱した批判は大事な物事を隠してしまうこともある。 板東女史が自分は自分の社会的責任を果たしていると言い張るならば 私なりの社会的責任を考えたいと思う。ちっぽけだけど それがこの本を紹介すること。一度読んでみて欲しい。読んでみるべきだと。 mooを亡くした直後に読む本としては苦しい話だった。 この本を紹介することで ほんの小さな責任の一端と思いたい。 読み進むことができない方だっているかもしれない。 表題の通りにはちっともドリームではない。 板東女史に崖に突き落とされて苦しむ時間と ドリームボックス(殺処分機)で苦しむ時間と 本猫に差は無いと思う。 お手てのこの関連の書き込みに みいしゃさんが 「他人の捨てる「命」を拾っている私は何なのでしょう?」 と書いている。 私の不在中にあったSOSの依頼 無責任な飼い主が引き起こした80catsの多頭飼い崩壊がすぐに頭をよぎった。 ここでもたくさんの命を拾っている人たちがいる。
板東女史もこの崩壊した飼い主も不妊手術は本猫の意思にそぐわないとか 可哀想だからという理由で行っていない。 結果に対する行為は対称的だが、どちらもあまりに過酷なケーススタディだ。
そして一個人では大量殺戮でなくとも・・・ 今回だけ、1回だけと放棄したり野良にしたり動物愛護センターへ持ち込んだり。 その結果がドリームボックスでの大量殺処分なのだから根は同じ。 ジロちゃんを去勢しないで面倒見ている我が実家を考えても、 今でこそ枯れたジロちゃんだが若い頃はこちらの感知しない所でランデブー。 結果生まれた仔猫を誰かが処分するという行為を引き起こしているに違いないのだ。
板東女史は少なくとも自分は他人に迷惑をかけていないと主張するだろう。 でもその知恵の無さは他人を不快にさせているのだ。 ペンでメディアの力を利用できる立場の少なくとも文化人(小心者の私など直木賞作家ともいえば当然そうだと思ってしまう)として。 擁護するつもりはもちろん、その一部分においてさえ肯定するつもりも一切無い。 (多頭飼い崩壊の飼い主と対比させたことで誤解なきよう) まっさきに抗議の声をあげた一人として これをきっかけに誰もが何かを考え始めたらと そう思う。 猫のことだけではない。 驚くこともしなくなった子殺し親殺しのニュースにまで。 日本の何かが狂っている。
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7月28日付け夕刊はご存知ない方も多いようなのであえて貼ります。 経過を説明すると、翌29日 日経の担当部署の応対者に対して 動物愛護法も改定になっており 本文中に大変まずい記述があるがどう考えるかと抗議しています。 (そういう抗議はなかったことになってるようですが) 応対者はどこの部分がいけないのか?とすっとぼけました。 エッセイ全体としての感想はどうですか?なんてこともほざきました(口が悪くてごめんなさい) ともかく筆者には 抗議内容を伝えるよう約束させました。 どうして途中でこういった内容ににチェックが入らないかということも抗議しました。 上に伝えますという回答でした。
とはいえ 全く効果はなく無力だったわけです。 28日付けのエッセイには少なくともきちんと「落としどころ」を意識した作家らしき気配があります。 が8月18日掲載の文章には 冒頭より 抗議があったことを意識してこれを 書いたのだということがありありと見てとれます。 そして愛護法なんてここには関係ないと、自分がタヒチ在住であることも今回は明記しています。 日経の読者であることを止められない悔しさでこれを書きました。
社会的責任として日経新聞はこれからどうするのか 絶対に見張ってなくてはいけないと感じています。
点線以下はしばらくしたら削除します。 「ドリームボックス」を読んで見たい方にはお貸しします。 介護日誌がこんなんなっちゃって悲しいです。 早く気持ちを切り替えて 頑張るにゃんの応援しなくちゃね、mooちゃん。
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